とくしま建物再発見A「着藤家の石倉」

異彩放つ『逆八の字型』

徳島新聞(2000年5月27日)より

 

木屋平村役場にほど近い、麻衣という集落の西はずれに、ひときわ異彩を放つ石積みの倉がある。着藤忠信さん所有のこの倉は、地元産の青石を使い、石と石の間に粘土やモルタルを詰めない、いわゆる伝統的な空積みの手法で丹念に築かれている。

 高温多湿の日本の風土にあって、純粋な石の建築は極めて珍しい。今から120年程前に、5代前の当主松蔵さん自らが築き上げたものである。松蔵さんは大工さんだった。倉の横にある母屋も、また近くの麻衣神社の社殿も彼の作だという。生涯、木と向き合い生きてきた人が、なぜ突然、石の建築を志したのかが不思議だ。

 彼は江戸末期に生まれている。激動の明治維新を体験し、着藤家の家系の中で、ただ一人、神道に身を置き、宮司も務めていたというから、神への尊崇はかなりのものと想像される。勝手な憶測になるが、神仏習合廃止の明治維新という時代背景が、彼を「木」から「石」へと駆り立てさせたのではないだろうか。石は古来から日本人の信仰の原点ともいうべきもので、石をご神体とする神社は多い。この石倉を見ていると、石ころの一つひとつに未来永劫の願いを込めて、築き上げたように思えてくる。

 よく見ると、この倉の石積みは大変奇妙である。壁は上にいくほど広がり、不安定な逆八の字型をしている。ご主人にお聞きすると、「石の壁が長持ちするよう、風雨に晒されない工夫だろう」と教えてくれた。なるほどと、うなずいてはみたものの、重くて固い石を積むことすら大変なのに、上にいくほど厚く積むのは至難の業である。新しい造形を追い求める匠の血が騒いだとしか考えられない。石の持つたくましさと、今にも崩れ落ちそうなはかなさの共存が、この石倉をより魅力的なものにしている。造形への飽くなき挑戦が、石という素材に新たな息吹を注いだのだ。実に見事としかいいようがない。時を越えた感動があった。

 逆八の字型という特異なフォルムの外観に比べ、石積みそのものは非常に堅固に築かれている。一見、雑然と積み上げられたように見える中央部の乱積み()は、コーナー部の端正な算木積み()と響き合い、絶妙のバランスで配置されている。整形と不整形の組み合わせが、表情に奥行きを与え、見飽きることがない。

 明治の初め、穀物の格納庫として造られた石倉であるが、台風襲来の時には家族の避難所として、また、ある時は子供の折檻(せっかん)部屋として使われてきたという。着藤一家の思い出がこの青石の中に詰め込まれている。

 頑固一徹を貫いた松蔵さんの人生。彼の残した歴史の生き証人は、何事もなかったように、過疎の村に今も静かにたたずんでいる。 (富田眞二)

 

※1:不規則な積み方で、石の形も不揃いなもの。

※2:コーナー部において行われる石積みで、直方体の石の長手側面と短手の側面が交互に現れるように積み上げること。

 

●メモ「着藤家の石倉」

所在地/美馬郡木屋平村麻衣79

所有者/着藤忠信(ちゃくとう・ただのぶ)

建築年代/明治10年頃(聞き取りによる)

設計施工/別着松蔵(5代前の着藤家当主)

構造/外壁四面石積みに木造置き屋根工法

規模/間口4.84m、奥行き5.00m、平屋建て

内部寸法/間口2.88m、奥行き3.74m、天井高1.72m

石の積み方/中央部は自然石の乱積み、コーナーと入口部は割石の算木積み

 

▲麻衣谷を挟んで向かいの山から見た着藤家。急斜面に張り付くように建って

いる。一番手前にあるのが石倉。

▲地元産の青石で築かれた石倉。木造の屋根を載せる置き屋根工法。造形

への飽くなき挑戦が石に新たな息吹を注いでいる。

▲石倉の入口。算木積みで築かれた壁の厚みは75センチもある。

 

▲正面右から見た石倉。石積みの常識を打ち破る「逆八の字型」の外観

フォルムが新鮮。

※写真はすべて末澤弘太(徳島新聞社写真部)

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